【連載】BRUTUS『〆飯』
雑誌およびWeb版『BRUTUS』で限界ごはんエッセイ「〆飯」を連載中です。
『〆飯』は〆切直前のような状況でも、誰でも簡単に作れるごはんと、それにまつわるエッセイです。
小さいころから自分の飯は自分で作ったり、やっぱり面倒でコンビニを利用したり。しかしかつては家庭科の教科書で「こ食」が否定されていました。
この「こ食」はどんどん増えているのですべては列挙できませんが、一般には
・孤食:ひとりでとる食事
・コ食:コンビニ食
・小食:少しの量しか食べない
・固食:偏食。なにかひとつのものばかりしか食べないこと。
・粉食:パンや麺などの粉物ばかり食べること。柔らかいため食べ過ぎてしまうらしい。
・濃食:味付けの濃いものばかり食べること。
・戸食:外食ばかりの食事。
・子食:子どもだけの食事。
・虚食:朝ごはんを食べないこと。食欲がない=虚しい、という意味らしい。
と言われています。
確かにこのうちの「濃食」や「固食」、「虚食」などは栄養面で問題視されるべきなので、気をつけなければならない事項です。
ただ、現代で「こ食」のすべてを避けて生活は回せません。特に忙しい時期に「コ食」や「戸食」を否定できるでしょうか。それは「普通の家庭料理」という幻想のもと作られたものではないかと疑っております。「これ、学校行きながら(仕事しながら)全部避けて通るのはキツくないか?」と幼いながら思っておりましたが、料理家の土井善晴先生が一汁一菜を提唱されているのを知って、食事にまつわる前時代的な幸福の檻から解き放たれたようでした。
年齢に関係なく栄養バランスは須らく気をつけなくてはならないことだし、男だから作れない(作らなくていい)、女だから上手に作らなきゃならない、などの言説も、ジェンダーイクオリティを問題視されている現代ではかなり古い感覚だとわたしは受け取ります。
そもそもこういったジェンダーロールは、お米を炊くだけでも釜戸に張り付いて火の見守り役をしなくてはならなかったり、冷蔵庫がなく食品を数日も保存できなかった時代だからこそ設定せざるを得なかったもので、あらゆる家電が揃っている現代には適さないものだろうと思います。それがいつの間にか、とにかく家の中で手間や時間をかけることが家庭内にあるべき愛情である、という思想へ変形してきました。そういった手間暇=愛情思想は、文明への冒涜とすらわたしは感じてしまいます。文明は技術革新の地層の上に成り立っているのに。
ガスコンロや冷蔵庫を使用している人を見て「手間をかけずにさぼっている、愛がこもっていない」と感じますか? もっと大げさな喩えをするなら「稲作で楽して食を確保するなどけしからん。もっとマンモスを追いかけるとか、ウサギを射るとかして働け」と感じますか? わたしは感じません。新しい調理器具を使った時短料理、缶詰やコンビニに売られているものを活用すること、ひとりで食事することも、いずれそんなふうに当たり前になるだろうと思います。
基本的にはとっても楽で、リーズナブルに作れる食べ物ばかりです。料理に対する姿勢、くらーい過去、かるーい日常話まで、幅広く書けたらと思っています。ぜひ読んでください!
2021年4月4日